鹿児島の映画館に問い合わせてみた。
『ゆれる』の上映予定はあるのか、と。
「今のところ、上映予定はございません」
もう我慢できな~い!観にいくのじゃぁぁぁああ!!
オダジョーも「菊ちゃん、来ないの?」って云ってたし。(←かなりの妄想)
私は知ってのとおり、オダギリジョーがスキスキ大好きなのだが、それだけだったら、わざわざ安くはない交通費を出してまで観に行ったりしないのだ。
共演が香川照之だからだ。
今、活躍している俳優のなかでダントツの演技力で、こちらも大好きな役者なのだ。
どちらか片方だけだったら、きっとDVDになるのを待っていたと思う。
『ゆれる』は、橋の上で起きたことで変わっていくひと、変わらないでいるひと、吊橋のようにゆれるひとの心を描いている。
今までみたことのないオダギリジョーがいる。
“ただの男” のオダジョーがいるのだ。
それよりも香川照之は、一体なんなんだ。何の恨みがあって、こんな演技ができるのだ?と思うくらい素晴らしいのだ。
散々、上手い、巧いと言われているひとに今更ながら言うことではないのだが、少し怖くなるくらい。
だからといって、あからさまに「上手いだろ」といった雰囲気を全くといっていいほど感じさせないのだ。
悲しく厳しい話なのに、見ていて重たい感じがしない。
透明なかんじすらするくらいなのだ。
だからこそ監督はこの二人を選んだのかもしれない。
心にはかなりズシンとくるのだが。
オダギリジョーが以前、云っていたことを思い出す。
売れない頃、浅野忠信の仕事を見ていて羨ましかった。ああいう仕事がしたい、と思っていた、と。
そして、今は自分がそういう風に見られるようになった。
でも、自分はそういう風になりたいのではない、と。
売れない役者の卵ではなく、現役で活躍している俳優、役者仲間に、「あいつの仕事いいなぁ、くやしいなぁ」と思われるようになりたいのだ、と。
『ゆれる』のオダギリジョー、そして香川照之をみて、何百何千という俳優たちが、羨望と嫉妬を感じていることだろうと思う。
オダギリジョーの顔や声はもちろん意識のなかで残っているのだが、フッと思い浮かんでくるのは、ラストの香川照之の顔と、洗濯物を畳んでいる香川照之の背中なのだ。
涙が溢れ出してしまいそうになるくらいの顔と、
胸がギュウウゥと締め付けられるくらいの背中が。
二度と出逢えない映画が終るころ、寂しくなった。
余談だが、この世の終わりが来るとしたら、今の私は母と二人、父の写真やお位牌を持って抱き合って死んでいく予定(?)だったのだが、予定変更することにした。
お母様、親不孝を許してください。私はオダジョーとキスをしながら死んでいくことに致しました。
え?オダジョーの気持ち?! そんなの無視無視♪ ヽ(^。^)ノ ラリホー☆

