前々回に桜島から見た夕焼けのことを書いた。
もちろん、そのあとがあるわけで、すっかり日が落ちたあと宿へ戻り、昼寝をしていた叔母と母を起こし夕食を頂いた。
一泊二食付きで約11,000円くらいだったのだが、充分すぎるくらいの味と量だった。
私はプラス日本酒代~![]()
お腹いっぱいになったあと少し休憩してゆっくり温泉に入って気持ちよかったぁ~![]()
布団に入ると、おやすみ3秒だった。
次の日は前日のドンヨリとしていた空がウソのように晴れて明るかった。
桜島一周の観光バスもあるのだが、一人1700円くらいなのと、母の足腰の調子も好くなかったこともあり、少しくらい高くついてもゆっくりと周りましょうということで、知り合いのタクシーを頼んで朝、宿に来てもらった。
数年前にあった長渕剛のオールナイトコンサートを記念して建てられた『叫びの肖像』。
コンサートがあった場所はかなりけずられていて、すぐそこが海になっていた。
人工島のためにけずられたのかなぁ。
実はこのあたりは柵に囲まれていたのだが、みんなそこをくぐって入って写真を撮っていた。
工事のみなさんも特に注意するようすもなかった。
っというわけで‥
やっぱりねん![]()
有村展望所に母は行かれるかなぁと思っていたのだが、ゆっくりゆっくりと途中まで行くことが出来た。
この日は、雲ひとつない晴天で空気も澄んでおり、桜島の南側になる展望所からは薩摩半島と大隈半島の端っこもキレイに見え、遠くの島々も見えた。
しかも!
開聞岳が!!
母達のふるさとの山である開聞岳がくっきり見えたのだ。
観光案内のかたが話してらしたのだが、こんなにキレイに見えるのは年に何度かで、この日みたいに見られたのは4~5ヶ月ぶりのことだそうだ。
叔母も母も桜島の美しい姿とともに、遠くに見える開聞岳に感激していた。
薩摩富士
島のあちこちに、噴火のときの火山灰や土砂から避難するトンネルみたいなところがあった。
桜島は見る方向が変わると違った雰囲気になる。
いつも鹿児島市街地から見えている山と同じとは思えないくらい山肌が変化している。
見ていて飽きないのだ。
桜島は大正の大爆発のときに、流れ出た溶岩で大隈半島にくっついた。
父は爆発の数年後に大隈で生まれて家族で鹿児島市に出てきたのだが、もともと祖先は桜島の黒神のあたりに住んでいた。
大正の爆発のときに一族で大隈のほうへ逃げ延びたのだ。
そのときに祖父が家財は置き、持ってきた仏様は今も私の家の仏壇のなかにおられる。
戦後、物のない時代に父が手作りした仏壇のなかある、ひとからみたら粗末にさえ見えるかもしれない仏様だが、母がお嫁に来たときにはもっと薄汚れていたそうで、それを母が磨いて磨いて少しは見られるようになった。
そんなことをフト思い出し、父が亡くなる前にどうして連れて来なかったのか、と今更ながら思い、少しだけ涙がでた。
ちなみに、父の伯父が自分んちの家財を置いて、この鳥居の神様を背負って避難した。
今も佐多にその神様を祭った神社があるそうだ。
そういえば、私も8.6水害のときには、仏様やお位牌をリュックに背負って避難したなぁ。
でも、家を出ると口くらいまで水があがっていて、そのリュックを頭のうえに持ち上げたまま避難したのだった。
そんなことも懐かしく思い出した。
ぐるりと周って、西側へ来ると市街地が見える。
この日は、高千穂連山もキレイに見えた。
‥のに、開聞岳ほどの思い入れがなかったためか写真を撮るのを忘れていた‥f(^ー^;
道の駅でお土産を買い、帰りのフェリーに乗った。
鹿児島から出て暮らしたことがあるひとはわかるかもしれないが、離れた街でテレビの映像などで桜島が流れると胸がプワ~と熱くなる。
鹿児島出身ではなく、転勤などで鹿児島で生活したことのあるひとも、「おぉ~桜島だ~」と懐かしく、そして「あんなにすぐ近くにあったんだなぁ」としみじみと思うと何人ものひとから幾度も聞いたことがある。
母校の校歌の歌いだしは「むらさきにほふ桜島~♪」だ。
まさしく、むらさきにほふ、というのを実感した一日だった。
一周して、見たものは桜島だけ。
でもこんなにもワクワクしたのは久しぶりだった。
フェリーから降りたあと、お腹が空いた私たちをタクシーの運転手が連れていったのは‥
しかも、少し食べてから「あ、写真‥」と思い出し、食べかけなのね~。
すまんすまん。
あ~、美味しかった~![]()







