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2009年8月20日 (木曜日)

Stella by Starlight

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少し前にも書いたのだが、私は腰椎ヘルニアからくる痛みが悪化したときに入院手術を覚悟していたので、少し痛みが治まりはじめたときにそのための準備をしていた。
いろんなひとに聞いてみて、手術した後しばらくしたら読書は出来るらしいとわかったので、頂いたり自分で買ったりして読んでいない本があるのでそれを読んじゃおうっと探してみるとザクザクと出てきて、「あ‥こんなに読めるんだ‥coldsweats01」と思いつつ帆布バッグにいれた。
買ってザッとはみてはいたけれどじっくりみたい雑誌もまとめて違う帆布バッグに入れた。
以前、肺炎をこじらせて1ヵ月くらい入院したときは最初の2週間は読書三昧だったが、そのうち飽きてきて、後半の2週間は編み物をしていたことを思い出し、毛糸と編み物の本の準備もしていた。
もちろん、寝間着・下着・タオルなどなどもしっかり準備していたのだが、運良く必要なくなった。
そのときバッグに入れた本のなかには、今年の2~3月頃に一時片付けと称してちっとも片付かなかったときに見つけた、水害のあと残った本数冊もあった。
読んでいない本があるのに、一度は読んでいる本をまた読みたくなって物置(の代わりにしている裏の小さな家)から何冊も持ってくる懲りない私だった。

Photo_2  これがなかなか面白い一冊なのだ
Photo_3 こころに重くひびく一冊

特に岩波新書の『詩の中に‥』は、若いころ読みたかったのだが当時もすでに絶版状態で、一時アンコール復刊があったためにやっと手にすることができたのだが、今は多分目録にも載っていないのでは、と思う。
アマゾンでもまったく引っかからなかったsweat02
この本を読むだびに自分は何にも知らない甘ちゃんであることをまざまざと知らされる。
初めて読んだときにすみっこで見つけた短い詩が忘れられない。

 にほんのひのまる
 なだて あかい
 かえらぬ
 おらが むすこの
 ちで あかい

いわゆる詩人ではない人びとの飾りのないことばが傷みにさえ感じたり逆にユーモアを交えて温かくなったりする。
何かから眼をそらそうとする自分がいるときに、他にも数冊あるのだがこの本のようなものを読むと、バシバシと見えないビンタをされたようになる。
決して、それでまた頑張ろうというわけではない。
ましてや「こういうひとたちもいるんだから‥」といったことはまったくない。
ただただ、甘ったれた自分に気づかされるだけ。
ひとに云われるのではなく自分で気づきたいのだ。

そして、案外まじめな自分にも気づき、「てへっcatface」となり、もとの菊ちゃんに戻るのだ。
最後はどこかで自分をほめる。
歳をとっていくと段々とほめてくれるひとも少なくなってくるのだ。
自分の敵は自分であり、自分の一番の味方も自分なのだ。
少なくとも私は~。

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読み返したい一冊と栞にしていた大好きなトムソーヤの冒険のカード ”誰よりも遠くへ~♪”

そんな案外まじめ(?)な私は、以前カタログが好きだと書いたが、本の目録も好きなのだ~。
ただの目録ではなく、少し読み物(対談なども)が入っている“何周年記念”というのが特に好き。
最近書店で見つけた目録は読み応えがありおもしろかった。

Photo_2 特に左の中公新書の!

なかには、エッセイや対談のほかに「思い出の中公新書」というアンケートがあり、これを見ているとアレもコレも読んでみたくなる。
また老後の楽しみが増えたかも~と思って最後の全2000点リストを見ていたら、結構 “品切重版未定” があるので気になったものは早めに買っておいたほうがいいのか?!と思ったが、いわゆる中公新書の定番というかベストセラーといわれるものはあまり品切れではないと気づいた。
でも、定番以外で読みたいなぁと思ったものが半分以上は品切れだった。
特に川本三郎さんの『アカデミー賞』が品切れなのはかなりショック‥weep
水害でダメになっていたのでいつか買いなおそうと思っていたのだ。
アンコール復刊してほしいなぁ。

復刊といえば、物置で見つけたコレも!!
Photo_3 河出絵はがき文庫

私が持っているのは昔の映画のポスターのハガキで、当時それぞれ2冊づつ買ったのだ。
使わずにとっておく分と使う分と。
しかし、水害後残ったものは「使う分」だったのだ~。うううぅぅ~~crying

そんないろんな意味で復刊を望む(?)私に京都の友人から荷物が届いた。

097 サントリー山崎蒸留所グッズheart04

秋の夜長の準備万端なのだ。
夜になると虫の声が聞こえてくるようになった。
灰が入ってこなければ窓を開けられるのに、と思う今日この頃。
相変わらず昼間は35度近い暑さだけどね。

2008年7月17日 (木曜日)

青春の影

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私は梅雨入りした頃から『少しだけ読書生活』になっている。
もともと、そんなに読書家ではなく、読む本も小説以外のものが多く、家にあるのはソフトカバーな本ばかりだ。
図書館にもあまり行かないし、行っても、その場で読むのは好きだが借りることはほとんどない。
好きな時間に好きな場所で読みたいので、借りても読まずに返すことが何度かあり、借りなくなったのだ。
でも本屋さんは大好き。だけど立ち読みはあまりしない。
本の背表紙を眺めているのが好きなのだ。

いつものように本屋へ行き、その日はフト文庫本コーナーを端から端まで眺めていた。
私はどちらかというと、どうしても欲しい本が出たらすぐ買って手元に置きたいタイプなのだが、買ってしまって安心していまう傾向があり、中にはすっかり忘れていて、いつのまにか文庫化されていた、ということがある。
その日は、まだ読んでなかったり途中で止まっていたりする本が何冊も文庫化されているのを発見してしまい、我ながら呆れて、ガクゼンとしてしまった。
そこでこれではイカン、と思い、決意した。
自分で買った本はいいが、せめてひとから頂いた本は文庫化される前に読もう、と。
そして、買ったまんまで読んでいない本も含めて、それらが読み終えるまでは本を買わない、と。(コレはすぐ破られた‥)

2 ←昨年のクリスマスに貰った本。

物静かな読書家のSくんは、「評判にはなっているけど、なかなか菊ちゃんが手を出さなさそうな本」や「個人的にオススメな本」をセレクトして、たま~に思い出したようにプレゼントしてくれる。
かなりいいひとである。たぶん。
この2冊は、何か賞も取ってたような気がするし評判もいいけど、どうしようかなぁ~、厚いしなぁ~、と思っていたら貰っちゃったのだが、頂いたあとは汚れないように千代紙でカバーをつけて飾っていた。
しかし、決意した私は「イカン!」と思い、まず赤い本から読み始めた。

  0d_2   『赤朽葉家の伝説』

そこそこ厚い2段組なのだが、もう一気に読んだ。いや、一気にしか読めなかったのだ。
こんなに最後まで飽きることなく読めたのは久しぶりだった。
久々にガツガツと本を読んだような気分になった。
内容は‥、いろんなところに書評があると思うのでそこを参考に~。
手抜きじゃないのだ。
かなり評判になった作品なので、気になったらあとは読むしかないと思うのだ。
(お近くに住んでいるかたにはよかったらお貸しします)
昔だったら徹夜しても読めたのに、徹夜ができなくなった。
腰に爆弾を抱えている私は『うつぶせ読書』ができないので、なおさらだ。ガックシ。

0e_2 青い本の『星新一 1001話をつくった人』

こちらは、ノンフィクションなのだが、これまた面白いのだ。
私と同世代だと、たいがいのひとが中学生くらいのころに星新一の本を読んだことがあり、筒井康隆の七瀬シリーズに夢中になり、そこから、もっとSFにハマっていくひと、アニメにハマっていくひと、もいるのだが、誰にでもある青春の通過点のように、気がつくと読まなくなっていったひとが一番多いのではないだろうか、と思う。
読んでいると、星新一のみならず、同じ時代にSFというジャンルが登場してきて日本に根付くまでのことなど面白く、それ以上に父親である星一がかなり興味深い。
この本は、きっと自分では手にしなかったと思う。
読む機会を与えてくれた友に感謝なのだ。

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お気づきかと思うのだが、少し前から自分の本棚を作るBooklogというのも始めて、時々思い出したように本を増やしている。

      book Daisy Books book ←こちらです。

今まで、たくさん本を読んできたような気がしていたのだが、いざ、こうやって本棚に入れるとなるとけっこう考えてしまうものなんだなぁ、と思う。
それと、本を登録しようとして検索してもまったく引っかからないことが何度かあるのだ。
同じ本をジュンク堂にある検索くん(という名前かどうかはわからないが‥)で探してもダメ。
絶版していて、流通もしていないのかなぁ、トホホ、となったときに、「あれ?持ってなかったっけ?」と思う。

ご存知のかたもいると思うのだが、私んちは15年前のいわゆる『8.6水害』のときに、床上1メートルくらい(私の胸くらい)まで水があがり、家財をかなりなくした。
たまたま上にあったモノ、アッという間に水があがるまでの時間でかろうじて上へあげたモノ、それが残されたものだったのだが、本は9割方ダメになった。
なのに今でも本に限らず、「あれ?持ってなかったけ?」と思うことがあるのだが、少し探したり思い出したりすると、たいがいのものは「あ、水害のときになくなったんだよね」と気づく。
なので、その検索しても見つからない本もないとは思うけど‥と思いつつ探してみた。
すると、あったのだ!他にも数冊!ナゾの手帖も発見!
クーラー、扇風機がない、物置にしている裏の小さい家で汗だくになりながら見つけた。
見つけたときには、汗が目に入ってしみたのか涙が止まらなかった。

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前にも書いたが、いろんなひとに背中をポンッと押されるように励まされ、ときには叱咤され生きているような気がする。
自分も誰かの背中をポンッと押しているのだろうか。
日常の小さな出来事から得るシアワセ。
見つけたナゾの手帖(気になる言葉を書いていたらしい‥)に書いてあった言葉を思い出した。

   『 人間の幸福というものは、時たま起るすばらしい幸福よりも、
           日々起ってくる些細な便宜から生まれるものである。』

いったい、昔の私(若かりし頃の私)は意味がわかっていたのか、単なるおセンチコレクターだったのかはナゾだが、そんなに簡単には人間は成長しない、というのは実感できてよかった。
他にもナゾのものを少し見つけてうれしくなった。
それらの話はまた次にしようと思う。
 

Sくん、いつもクールに、ポン、ポンッとありがと。

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2007年5月21日 (月曜日)

あなたに会えてよかった。

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まだ22歳くらいのころ、読みたくて仕方がない本があった。
雑誌などで、自分の気になる何人かのひとがオススメの本として紹介しているのを見て、読みたくなったのだが、書店で出版社に問い合わせても、そのときすでに在庫なし、絶版状態だった。
発刊されて2年くらいだったと思うのだが、鹿児島市内の書店はすべて在庫なし。
私は美術館めぐりが好きで、旅行の目的もそれが主だったことが多かった。
そんなときに知らない街の書店に入り、必ずその本を探した。
やはり、それでも見つからず、そういうことを繰り返しているうちに10年くらい経ったと思う。

ある日、その作家の作品が全集として発刊されるという記事を見つけた。
その4巻目が、私が読みたくて読みたくて仕方なかった作品だった。
発行される月を楽しみにして、予約してやっと手にいれることができた。
でも、すぐには読むことはできなかった。
読んだのは、手に入れてから半年くらい経ってからだと思う。

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『 しずかにわたすこがねのゆびわ 』 干刈あがた(河出書房新社/2990円)

1960年代の中ごろから約15年間の数名の女たちが社会の差別や矛盾のなかでもがき、傷つきながらも自分の人生を切り開いていこうとする姿を真摯なまなざしで書かれた、やさしくて苦い作品。
時代設定や書かれたのが一昔前なのでセリフや女たちの意識が多少は古めかしく感じることもある。
特に結婚・離婚に関しては、当時とはだいぶ変わってきているだろう。
それでも、根本的なこと、女の本質は変わりがないようにも思える。

誰にでも、いつか、苦しみの指輪が回ってくる。
それでも生活は続く。人生はそう簡単に終わることなどできないのだ。
しずかに痛いくらいの孤独さと向かいながら、誠実に生きることができるだろうか、と考える。
優しさと厳しさのバランスをとりながら、時代に女として立ち会うということ。
自分自身が裂けそうになることもあるだろう。
そんなときに、そっと差し出してくれた、なにか明るく照らしてくれる目には見えないもの。

干刈あがたさんがおっしゃってらしたことがある。

  「どこかのひとりの女性の抱えている問題は
    世の中の女性すべての問題なのだ。」

私がこの『しずかにわたすこがねのゆびわ』を初めて読んだのは確か34歳か35歳のとき。
読みたい、と思ってから12~3年経っていた。
しかし、それだけの年月が必要だったのだ、と思わずにはいられなかった。
きっと、どこかでだれかが、「まだだよ、まだまだ」と云っていたのだと思う。
それでも、この本を読んだ8歳年上のお姉さんには「まだまだ早い」と云われたのだが。
そのときの面映い気分はわかるだろうか。

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干刈あがたさんがこの本を最初に出したのは1986年頃。
そして、1992年に49歳の若さで亡くなった。
数年前に全集が発刊されたがすぐ品切れ状態になり再版は未定で、今も本が手に入りにくい作家だ。
やっと手に入れた数冊の本は私にとっては宝物。
初期の作品に『樹下の家族』という作品がある。
永瀬清子さんの『木陰の人』という詩を読んで感銘を受け、対句として『樹下の家族』を書いたそうだ。
私は『樹下の家族』も未だ読んでいないのだが、その永瀬清子さんの『木陰の人』という詩も読んだことがなかった。
永瀬清子さんは『あけがたにくる人よ』などを紡ぎだされた素晴らしい詩人だ。

ひとつの小さな円だと思っていたものが大きくつながった円になっていたことに気づくことがある。
特別なひとは出てこない。いわゆる面白い話でもない。
どこでもいる誰かのための作品だと思う。
でも、自信を持っていえる。
この作家に出会えたことは私にとっては幸せなことだ。

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2007年1月31日 (水曜日)

友を選ばば書を読みて。

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『ソーネチカ』 リュドミラ・ウリツカヤ著/沼野恭子 訳(新潮社)

私は翻訳ものが苦手だった。いや、今でも苦手だと思う。
面白いよ、と云われて買って読み始めて途中で止まったまんまの翻訳ものが数冊ある。
なにが原因なのかは自分でもわからないのだが、特にミステリーがダメなのだ。ミステリーは大好きなのに。
そんなことを友人たちに話したことがあった。
そのときに薦められたのが新潮社から発刊されていた“新潮クレスト・ブックス”だった。
「このシリーズだったら、菊ちゃんも最後まで読めるんじゃあないかなぁ」と云われて初めて読んだのが『朗読者』。
かなり評判になった本なのでご存知にかたもいるかと思うが、私も涙がじゅるると出てしまった。
それと本の装丁が素晴らしくて感動した。
BARでたまにバッタリ逢っていろんなお話をするお兄さんに、ちょうど持っていた『朗読者』をバッグの中から取り出して、「この装丁や造本が素晴らしいのぉ~」と説明したくらいだ。

それから、少しづつだけど翻訳ものも読めるようになった。
そんなある日、「菊ちゃんにオススメなんだよ~」と云われた。
「どうしようかなぁ~、今度のお給料日にでも買って読んでみようかなぁ~」と考えていると、ちょっと早いクリスマスプレゼントとして2冊のクレスト・ブックスが届いた。
とっても嬉しかったので、お気に入りの江戸千代紙でカバーをつけた。
先日、そのうちの一冊『ソーネチカ』を読み終えた。
静かに本を閉じるときの幸福感はいったい何だったのだろう。

帯やカバーに書いてあるコピーは、
「本の虫で容姿のぱっとしないソーネチカ。
  最愛の夫の秘密を知ったとき彼女は‥‥。」
「神の恩籠に包まれた女性の、静謐な一生の物語。」

内容は好き嫌いがあると思う。
感動したひとがエライわけでもなく、そうじゃないひとがいて当たり前だと思うのだ。
主人公のソーネチカは、世間でいうところの「勝ち組み・負け組」や損得で考えると、明らかに負け組みで損な人生かもしれない。
ひとによっては、「容姿がぱっとしないから私はこれで十分」ってことじゃあないの?と云うかもしれない。
しかし、所詮どれもこれも他人の眼からみたことなのだ。
それなら、精神的に豊かってことか?と考えるかもしれない。
誰しも心のどこかに「精神的に貧困」な部分を持っているから。
私はソーネチカはそんなことすら考えていないようにさえ思えた。
そんなひとの人生を小説とはいえ自分の引き出しに入れてしまったのだ。
賞賛もせずに、つきはなしもせずに自然に生きてきただけ。ただそれだけ。
自分はそんなふうには到底生きられないからこそ、この静かな余韻が心地よいのかもしれない、と思った。

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本でも映画でも音楽でもなんでも、すべてが気の合うひとなんているわけがない。
でも、ココロのずっと奥にある振り子がカチカチカチとなることがあって、それが好いふうに振動しあうことがある。
男だの女だの愛だの恋だのでは計れないもの。
いろんなひととのそんなものが少しずつでいいから増えていくといいなぁと思っている。

せぇの、って背中をポンと押してくれたSクン、ありがと。
風邪、早く好くなるといいなぁと遠く鹿児島の空を見ながら思った午後。

2006年11月23日 (木曜日)

本棚の中から。

Photo_190 読書の秋だケロ

もう10年以上も前に読んだ本のことを書くのはいかがなものだろう。
そう思ったのだが、どうしても書きたい本のことがいくつかある。
さらに本というのは映画と違って、あとでDVDになる、BSで放送される、というようなことはなく、
文庫本になっても品切れ・絶版になることが多い。
昔からの知り合いのひとたちはコピーの冊子等で読んだことがあるような本の話をたま~に目にするかもしれないけれど、「そういえば、そんなこと言ってたかも‥」ということでよろしくネ。

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『 応為坦坦録 』 山本昌代 (河出書房新社)

10年以上、いや15年以上前くらいにはなると思うが、高橋克彦の『北斎殺人事件』を読んでからずっと私は “北斎隠密説” を信じている。
だからもちろん、私にとって北斎の娘・お栄も父親の跡を継いで隠密なのだ。
他の北斎に関する本を読んだり映画を観たりしても、それがどんなにおもしろくても、私のなかの“北斎隠密説”は揺るぐことはなかった。
しかし、『応為坦坦録』を読んだあと、「北斎は別として、お栄はもしかするとこっちのほうが
‘らしい’ような気がする」と、ちょっぴり思ってしまった。

「応為」というのは、北斎の娘・お栄の画号だ。
北斎が名前を呼ばずに「お~い、お~い!」といつも云っていたのでこの画号になった、というのが一番伝わっている説だ。
『応為坦坦録』はタイトルどおり坦々とお栄と北斎や、そのまわりの人々のことが描かれている。
話し言葉のテンポがよくって、まるですぐそこでお栄たちが話しているような気にさえなる。
そして最後の一行に胸がギュッとなった。
それと、読み終えたあとの爽快さは一体何だったのだろう、と思った。

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お気に入りの時代劇の映画には、かならずといっていいほど画面のなかに‘風’を感じることがある。
『応為坦坦録』も読みながら何度もその‘風’を感じた。
山本昌代さんは、この作品で文藝賞を受賞したとき、なんと23歳だったそうだ。
それを知ったとき私は、23歳でこの『応為坦坦録』を生み出したということに驚きをかくせなかった。
私から「騙されたと思って読んでみて」と、半ば無理やり読まされた友人たちも23歳という若さに驚き、そして「好かったよぉ~!」と、やや興奮気味に喜んでくれた。ふふふ~。
亡くなられた杉浦日向子さんが以前、江戸っ子のことを 《 あっけらかんとした絶望感 》 という言葉で表現していて、なるほど、と思ったのだが、『応為坦坦録』のお栄はまさしくそのとおりだった。
あっけらかんとした絶望感と生きっぷり、そして風。
それが読み終えたあとの爽快感になっているのかもしれない。

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『写楽殺人事件』から始まる高橋克彦の浮世絵シリーズを読んでいなかったら、この『応為‥』も読むことはなかったかもしれない。
高橋克彦をはじめ、いろんな本を友人に教えてもらって読んだ。
読む愉しみをたくさん教えてくれた友人に感謝☆ ありがとう!

余談だが、少し前にイタリア映画の話題ときに、映画のなかで「俺たちはダヴィンチやミケランジェロの子孫だぞ!」と云っていたのが羨ましかった、というようなことを書いた。
それから、外国のひとたちでも知っている日本人って‥?とちょこっと考えていた。
そして、「あぁ、そうかぁ」とやっと気づいた。
写真を撮っているひと、デザインをしているひと、もちろん絵を描いているひと。そして映画を作っているひと。
胸をはって、「私たちは北斎や広重の子孫なんだ!」と云えばいいんだぁ、ってね。
なんだかちょっぴりスッキリしちゃったなぁ。

2006年10月22日 (日曜日)

涙という字はいらない。

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『ひとがた流し』 北村 薫 著(1600円/朝日新聞社) 

趣味に「読書」と書くには書くが、たくさん読んでいるかというとそうでもない。
あえて云うなら「読むのが好き」といったほうがいいかもしれない。
小説も好きだが、コラムを集めた本も好きだ。エッセイじゃあないの。

北村薫さんは割と読んでいる作家で、特に「私と円紫さん」シリーズは大好きで、中でも 『六の宮の姫君』はお気に入りの一冊だ。
最近では、『ひとがた流し』 を読んだ。
40代になる女性3人を淡々と描いている。本当に静かに。
社会での立場と仕事の充実感、それゆえの苦しみ。
女性もある程度の年齢になると、人それぞれに抱える荷物が増え、そして、その荷物をだんだんと整理しようかと思うようになる。
生きている以上、誰にでも訪れることがある。
人はひとりで生きていかなくてはならないのだが、ひとりぼっちでは生きていけない。
友人知人というものは数ではない。
自分が知っているひとが、自分を知っているひとが何人いようと、お互いにこころのなかで支えあえるひとがいなければ寂しいものだ。

これを読んでいるときに、自分の中の“こころの一冊”ともいえる本を思い出した。(その本についてはまた今度‥)
時代は変わっても女性が抱える喜怒哀楽はなんら変わりがない。
変わりようがないのだ。
そして、もう一冊、『永い眠りにつく前に』という本も思い出した。
私はけっして、いわゆるフェミニストではない。
正直いうと、それを大声で発している女性たちが少々苦手だ。
この『ひとがた流し』には、「涙」も「愛」も「友情」も出てこない。言葉としては。
なのに、読みながら、そして読んだあと、涙がポロポロ溢れてくるのは私が女だからだと思う。

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読書でもなんでも、『数』でははかることができないものがある。
いい本に出逢うといつも感じることがある。
あぁ、私は 『読むよろこび』 を知ってしまったんだなぁ、と。

前も云ったことがあるのだが、昔、会社を辞めるときに、いろんな人たちがメッセージを書いたアルバムのようなものを貰った。
その中の1ページに、ある上司からのメッセージがあり最後に 「Many Books!」と書いてあった。
そのときには、さして気にもせずこころの隅っこにあった「Many Books!」が、いい本に出逢うたんびにズシンとこころの奥から響くようになった。
そして、「そうかぁ、そういうことだったんだぁ」とちょっぴり胸がホックリするのだった。

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2006年10月 2日 (月曜日)

本人の人々

1_50 『本人の人々』 南伸坊 著

私はある意味、南伸坊を尊敬していると思う。
尊敬という言葉に広~く解釈が許されればの話だが。
実際、「尊敬する人は?」という問いには、「辰巳芳子さん」と答えている。
本当の意味で尊敬しているから事実なので。
んぢゃ、南伸坊のことは本当には尊敬していないのか?というとそうではないのだ。

バカバカしいことが楽しいようでなければ人生はつまらない、と教えてくれたのが南伸坊なのだ。
っというよりも、南伸坊の本を読んでいると、世の中つまらないことなんてないんじゃないか?とさえ思うのだ。
20年くらい、愛読しているのだが、全部読んでいるかというとそうでもない。
書店で気がついたら買う、というスタンスなので、読んでいない本が何冊もあるがあまり気にしていない。
しかも、南伸坊の本は書店の棚にいつまでも置いてある本ではなく、すべて文庫化されるわけでもない。
そんな私でも見逃さないシリーズがこの本人になりきって写真を撮るやつだ。

これはいわゆる『顔マネ』ではない、と南伸坊は云っている。

昔から「ヒトの身になって」考えよという。なかなかそうは
いかないのだが、それは人々が「ヒトの身に」ならないからだ。
私は文字通り「ヒトの身」になってみようと思った。・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・私は、さまざまな本人になってみた。
そうして、その本人の身になって文章を書いたのである。
身になったまま、書くのがのぞましいが、実際は本人の身に
なった写真を、鏡を見るように「見ながら」本人としての言葉を
つむぎ出す、という手順になったことが多かった。

なので、この本のなかの文章は南伸坊が書いたかもしれないけれど、あくまでも本人の身になって書いた文章で、読んでいくと本人自身よりも本人かも、とさえ思えてくるから不思議なのだ。

Photo_119 鳥越俊太郎(ジャーナリスト)

Photo_120 松井秀喜(大リーガー)

Photo_121 加藤紘一(政治家)

Photo_122 ディビット・ベッカム(サッカー選手)

「ソックリ!」と思うヒトもいれば、「なんじゃコレは?まさか‥」というヒトもいるだろう。
目を細めてみるとなんとなく‥似てるかも‥というのももちろんある。

Photo_123 キアヌ・リーブス(俳優)
例えば、コレはキアヌでは絶対ない!はずなのだが、でもかなりツボは押さえているのだ。見ているうちに「もしかしてアリかも‥」とさえ思うくらい。

Photo_125 村上龍(小説家)
この村上龍はかなり失礼といえば失礼だ。いや、他のも失礼なのがあるけど。
だけど似ているよねぇとニマニマしながら見てしまう。
ちなみに、小倉久寛でも太ったヒビノでもない。

そんな私が一番ツボにハマッたのが次の本人さんだ。

Photo_126 手嶋龍一(NHKのひと)
わかるヒトにはわかる、とはこの写真のことなのでは?と思うくらい、どツボだった。
このヒトになろう、と思った南伸坊に拍手を送りたいくらいだった。

他にもいろんな本人の人々がいるのだが、試しに私の母(79歳)に写真だけ見せて「コレ誰?」と聞いたところ、7~8割方、本人の名前を云ったのだ。
なかには「うんにゃ、○○××はこんなヒトじゃない!」というのもあったが‥。
南伸坊が素晴らしいのか、母が素晴らしいのかはわからないが。

森鴎外は、「なんでもないことが楽しいようでなくてはいけない」と云っていた。
「退屈は人間の恥」とさえ‥。
実際は楽しいことや面白いことばかりの生活なんてありえないのだが、楽しいことや面白いことのある生活はいくらでも出来る。
そのための自分のアンテナを信じて、時々はメンテナンスをして、ピピピッと発見するのだ。自分のために。
南伸坊の本を読むとヘラヘラ笑って元気になる。
楽しいことはいいことだなぁってネ。

311 だからって‥。

自分は本人にはなれないので、本人のなかへドッキング!
あくまでも昔のプリティ・リトル・菊ちゃんってとこが乙女の恥じらいっていうの?
そういうことにして~。(-_-;)ヾ ポリポリ

2006年9月 3日 (日曜日)

かみさまに逢う。

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『かみさま』 大平一枝 著 ・ 小林キユウ 写真 (ポプラ社)

「この本を見つけて手にとった自分を誉めてあげたい気分」になることがある。
この『かみさま』もそんな1冊だ。
『かみさま』 それは、紙さま、ペーパーのことだ。
前書きを引用してみた。

       かみさまとは

本書の主役は紙。
人と人の心をつなぐ紙さま=かみさまを描いた。
誰にも見せる予定のない旅の手帳、期限が過ぎてしまったダイレクトメール、誰かの年賀状、いつかの学級新聞、書店のブックカバー。
そういう何気ない、ささやかな紙のなかにかみさまはいる。
けなげに、静かに、けれども永遠に消えずに存在する。

いつでも、どこにでも、逢うことはなくても、“ 仲間 ” は存在する。
そんなことをホンワカと感じることがある。
この『かみさま』は、数少ないそんな本だ。
Happy Hourのベクトルが同じ方を向いているひとがいることがわかる。

そこで、自分の『かみさま』を集めてみた。
っといっても、現在、手の届く範囲なので、これでも、ほんの一部‥。

1_22 ←展覧会のチラシとチケット

2_31  1_24 ←美術館のスタンプ

展覧会のチラシは、実際観にいったもの(上の写真)以外に、観に行ってはいないけど気にってとってあるのが山のようにある。
それを使って、封筒を作ったり、文庫本のカバーを作ったりして楽しんでいる。
スタンプはお気に入りのもの。

Photo_59 ←封印シール

気になってとっているうちに集まっちゃったもの。
封印以外にも、「お早めにお召し上がりください」シールや商品名シールもある。

Photo_60 ←お気に入りの菊柄(和菓子だったかも)
Photo_61 ←美味しい紅茶が包まれていた
Photo_62 ←とっても美味しい麩饅頭の包装紙

包装紙は結構、再利用するのであまり残っていない。
手紙にしたり、紙袋を作ったり‥と。

Photo_63 ←のし紙

のし紙は裏が白いことが多いので、便箋にすることがよくある。
右の雀のはお気に入り。
地元の『明石屋』は、包装紙、箱、のし紙と、上質なものを使っていて、老舗のプライドのようなものを感じる。

Photo_64 ←山下洋輔さんの似顔絵とサイン

以前働いていたところに、山下洋輔さんが来られたときがあった。
私は手元にあったメモ紙(裏はコピー済みのもの)に、ザッと鉛筆で似顔絵を描いて、隣のひとに見せたところ、「本人に見せたらいいよ~」と云うのでそれを真に受けて、山下さんのところに行き、「桜島のコンサート頑張ってください」と云い、「似顔絵を描いたのですが‥」と云って見せたら、大変喜んでくださり、自らサインをしてくださった。
似顔絵の100倍くらい素敵な笑顔だった。

Photo_65 ←ランチョンマットとコースター

京都のカフェでランチをしたとき、ランチョンマットが素敵だったので、自分が使っていたのをコソっと思って帰ろうとしていたら、お店のかたが、「ご旅行どすか?」と話しかけてきて、「どうぞキレイなのをお持ちください」と新品のランチョンマットをくださった!
広島の『モーツアルト』でも、コースターを持って帰ろうとしていたら、お店のかたが新品のを2枚もくださった!!

2_32 4
6 ←箱を作る

一時期、箱を作るのにハマっていた。
ほとんど人にあげてしまったので、手元に残っているのはわずか。
写真のは、一番大きい水玉のがハガキの半分くらいの大きさ。
小さい三つの箱がキチンと入るのだ。
用途不明。作るのが目的だから~。

3_6 ←お気に入りの本たち

ずっと手もとに置いておきたいお気に入りの本には、大好きな江戸千代紙やチェック柄のものや包装紙でカバーをつける。
大切で大好きなものだからこそ、なるべくファイルのなかで死守することなく使って愛用する。
大切なひとへの手紙やプレゼントに使う。

キチンと整理してファイリングすることもいいと思う。
でも、私のは「だいたい」である。
だから、とっさに写真に撮ろうと思っても、「アレはどこだっけ?」となる。
でも私はそれでいいのだ。
植草甚一さんが収集のことの本のなかで云っていた。

「ぼくは系統だった郵便切手のコレクションはしていない。
だいたい何によらずコレクションというやつは、人間を生意気にする傾向があるからイヤなんだ」

エコでも、もったいない、でもない。
特に何かの役にたつというわけでもない。
しいて云えば、“ 私だけの楽しみのひとつ ” なのだ。
時々、お裾分けするけどネ。

Photo_66 *Tea Break*

今回はいつもにも増して写真が多く、最後までごらんくださって、ありがとう♪
Oh my God ! ならぬ、Oh my Paper ! なのだ。 

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