『父の椅子 男の椅子』 宮脇彩 著
建築家の宮脇壇の二十世紀の名作椅子のコレクションのある家で生まれ育った娘の彩さんが、「カッコイイことは良いこと」を実践していた父、宮脇壇の思い出をステキな椅子のエピソードと写真とともに紹介してくれる一冊。
5~6年前に初めて読んだのだが、読み終えたあとは涙がポロポロ。
幸せな娘であり、幸せな父親の本だ。
私の父は家具職人だった。
中学校を出たら、すぐ見習い工として家具屋に入った。
太平洋戦争のときには、そこから満州へと出兵して行った。
戦後、引き上げてきてからまたその家具屋で55歳の定年までずっと一職人として
決して高くはないお給料で真面目に働き続けた。
私は父が45歳、母が38歳のときの子どもで、父が定年のときにまだ小学生だった。
そのあと父は屋久杉の工芸品を作る会社で10年間働いた。
経験を積んだ職人でも地方の小さい会社で、さらに定年後ということもあり、
お給料はさらに安かった、と母から聞いたことがある。
母は父のところに嫁いでから、私が小さい頃には昼も夜も働いていた。
それまでにはいわゆる「お勤め」などしたことがなかった母だった。
小学2~3年くらいまで夜は父とふたりで過ごしていた。
そのうち母は昼間だけ働くようになり、夜は家族3人になった。
両親が頑張ってきたから、小さいながらも今住んでいる家も土地も自分たちのものになった。
私は中学生の頃まで、自分の家が貧乏だとわからずに育った。
大切に大切に育てられたおかげだ。
それなのに、私は段々と父に小さく反抗するようになった。
そして、父は自分のことがきっと嫌いなんだと、思うようにもなった。
社会に出て、接客の仕事をするようになってから、あるとき気づいた。
笑顔で接するひと、やさしく接するひとには、よっぽどのひとじゃない限り、笑顔で返してくれる。
カンジが悪いひと、横柄にひとに腹か立つからといって同じように接すると倍になって返ってくる。
私は何をしてお給料を貰っているのだ、と。
そして、あぁ、私は娘なんだ、子どもなんだ。小さい頃は一身に父に笑顔で甘えていたのだと。
それから少しづつだけど、前よりも楽しい我が家になっていった。
1993年の8.6水害のときには、父が作ったものがことごとくダメになってしまった。
特に私が小さい頃から使っていた勉強机は16歳離れた兄の代から使っていた大好きな机で、
それが壊されるときにはその場にいられなかった。
でも、一番こころに残っているのは、母のひとことだ。
家の一番奥の部屋の棚のなかに、父が50年以上使って来た工具箱が入っていた。
なにしろ、一番奥なので取り出すのがだいぶ遅かった。
ドロ水に長いことつかっていた鉄の工具はすでに錆びが出始めているのもあった。
それを見つけた母が「ごめんなさい、ごめんなさい‥」と泣きながら、手に持っていたタオルで
工具ひとつひとつのドロを拭きながら「これで私たちは生活させてもらったのに‥」とつぶやいた。
そうなのだ。父がコツコツと真面目に働き続けてきたからこそ、母も働けたし、私たちも大きくなった。
水害からしばらくして、父は甲状腺のガンが見つかり、長時間の手術を何度も受けて、約10年間頑張って3年前に亡くなった。
亡くなる半年くらい前まで自転車に乗っていたし、兄貴の末っ子の成人式にも出ることができた。
亡くなる前夜には兄と腕相撲をして勝って喜んでいたそうだ。
亡くなる朝まで口から食べ物をとることもできた。
私は病院のベッドの横に付き添いながら、「お父さんがずっといてくれたから、小さい頃ちっとも寂しくなかったよ、ありがとうね」と云うことができた。
少し笑って私の手を握った。
家族見守られて安らかに天国へ行った。
水害のあと、父が作った椅子がある。
何のかざりもないけど、とにかく丈夫でガッシリした、父のような椅子。
私はこのパソコンの隣において小さいテーブルのようにして使っている。
同じものがもうひとつあるけど、誰にもあげない。私の椅子だから。
父は「母ちゃん命!」だった。私と母が出かけると私に対してヤキモチを妬くくらい。
でも亡くなってから一度も母の夢にでたことがないらしい。
私の夢には時々出てきて、いろんなものを作ってくれる。
亡くなってからはじめて夢に出てきた父が作ったのは、天蓋のあるベビーベッドだった。
きっと、父が私に一番作ってあげたかったものだったのだろう。
ゴメンなさい、お父さん。
きょうは父が亡くなってからちょうど3年。
今でも『父の椅子 男の椅子』を時々パラパラと見る。
初めて読んだときよりも、いろいろと思い出が溢れてくる。
今でも父が生きていてくれたら、ああいうこともこういうこともしてあげられるのに、と思う。
面影はこころのなかで色あせずに残っている。
私もシアワセな娘だ。
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